町 亞聖(まち あせい)
1971年、埼玉県さいたま市出身。高校3年生のときに母がくも膜下出血で倒れ、車いす生活に。以後10年間にわたり介護を続け、「ヤングケアラー」として学生時代を過ごす。1995年に日本テレビに入社し、アナウンサーとしてスポーツや報道番組を担当。その後、報道記者として医療・介護問題を中心に取材し、2011年に独立。ヤングケアラーや介護問題について発信を続けている。主な著書に『十年介護』『受援力』などがある。
――ヤングケアラーとして学生時代を過ごされました。
高校3年生の3学期の始業日、当時40歳だった母が脳卒中で倒れました。前日まで、いつも通り家事をこなし、私と中学生の弟、小学生の妹の世話をしていた母が、突然命の危機に直面するなんて、誰も想像していませんでした。手術室に入る前の母は意識があり、医師の説明もしっかり聞いていましたが、私たち家族に告げられたのは、「命が助かればいい」という厳しい言葉でした。
――お母さまに重度の障がいが残ったことで、生活が一変しました。
母は一命を取り留めたものの、意識不明のまま入院することになりました。父は寝袋を持って病院に泊まり込んでしまい、家には10代の私たち3人だけが取り残されました。家事をほとんど手伝ったことがなかった私は、どこに何があるのかも、どうやってご飯を作ればいいのかも分からず、途方に暮れました。元々、父は家のことは何も出来ない人でした。弟と妹の世話も私任せで、掃除も洗濯も、全て自分がやらなければ片付きません。母が食事を作ってくれることがどれほどありがたいことだったのか、家事がどれほどの労力を要するのかを、痛感しました。同時に、私たち家族がいかに母に頼りきっていたかを思い知らされました。
――経済的な面から進路にも大きな影響がありました。
当時、父の収入は少なく、医療費が家計を圧迫。生活がどうなってしまうのか、不安で押しつぶされそうでした。進路を決める大事な時期でしたが、まず弟と妹を高校まで卒業させること、そして母の看病を優先せざるを得ませんでした。夢や進学のことを考える余裕はなく、目の前の現実をこなすことで精一杯でした。
さらに、当時は今のようにスマホで気軽に誰かと連絡を取ることもできず、自分の置かれた状況をどう説明すればいいのかも分からず、相談することさえ難しかった。「ヤングケアラー」という言葉もなく、自分がどれだけ特殊な状況にいるのか、客観的に理解することもできませんでした。
そんな私の背中を押してくれたのは、「大学には行って欲しい」という父の言葉と、相談に乗ってくれた担任の先生でした。「絶対に必要になるから」と奨学金の手続きを勧めてくれた先生の言葉は、暗闇の中で光を灯してくれるようでした。
――学校や教職員はヤングケアラーをどのように支援すればよいでしょうか。
子どもたちの変化に気づいたら、「何かあったらいつでも相談してね」と声をかけ、安心して頼れる存在になってもらいたいと思います。
私がヤングケアラーだった当時は、貧困や虐待の問題も今ほど社会的に認識されておらず、「親が病気なら家のことを子どもがやるのは当たり前」との風潮がありました。「頑張りなさい」と励ましてくれる人はいても、具体的な支援をしてくれる人はいませんでした。
励ましの言葉だけでは、負担は軽くなりません。子どもたちが抱える悩みや不安に寄り添い、一緒に解決策を考えてもらいたい。そして、地域と連携し、行政・医療・福祉の専門機関につなげることが大切です。
――教職員や保護者にメッセージをお願いします。
ヤングケアラーとして過ごした経験は、私の人生の大きな財産です。困難を乗り越えたことで、私は強くなり、見て見ぬふりをしないおとなになりました。
ヤングケアラーは、決して特別な存在ではありません。誰もが、いつどのような状況に置かれるか分かりません。そして、決して「かわいそうな存在」でもありません。彼らは家族のために、精一杯頑張っています。
だからこそ、社会全体で彼らとその家族が人生を諦めることなく、夢に向かって歩める環境を整えていく必要があります。ヤングケアラーだった子どもたちがおとなになったとき、今度は誰かを支える側になれるような、そんな温かい社会を共に築いていきましょう。